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金彩友禅とは

現在の金彩友禅の誕生には、私を魅了してやまなかった桃山、江戸時代初期の摺箔の名品があり、またそれには中国からの印金技術の伝来がありました。金銀の発見から現代まで、その系譜を簡単に記しておきます。
金銀の歴史を辿ることは、一面において人類数千年の歴史を顧みることでもあります。金銀に対する人間の願望や欲望は、直接的には経済を支配し、間接的には文化や化学の発達を促す原動力になってきました。例えば、中世の錬金術師の情熱は近代化学の礎となり、未知の黄金郷(エル・ドラード)を求めて大航海に出帆した人々は、新たなる大陸の発見によって新世紀の開幕を告げたのです。
金銀の発見は紀元前三千五百年頃のメソポタミアといわれています。古代の人々は、その豪華で際立った輝きと、火で燃やし土に埋めても変質しない不変性に、単なる稀少価値以上の神秘なものを認めたのです。金は太陽のおとし子であり、魂を持つ超自然的な存在として神や神の代理人である王侯に捧げられ、洋の東西を問わずあらゆる国々で神の世界や極楽浄土を現出し、また権力の象徴としての装飾品などに用いられました。特に有名な例としては、古代エジプト王朝や中国殷代の遺跡からの発掘品があげられます。
また初期の医学では、金は最高の薬であると考えられ、金箔や金粉の服用が伝えられています。色彩としての金色は常に特別な地位を占めてきました。厳かな輝きは、他の色の中に加わっても決して自分を失うことはなく、はっきりと自分を主張しています。『西洋の没落』を書いた十九世紀のドイツの哲学者シュペングラーはその著書のなかで、“金は決して色でない。自然のなかでは決して現われない光輝は、超自然的である。それは、神霊の本質と支配を表現している”とさえ述べています。


このように神聖視された金ですが、物理的にも優れた特徴を持っています。適度な粘りを持つ性質を利用して、金の板を更に薄い箔にすることが行われたのです。
この金銀「こがね・しろがね」の出現によって、人間は長い間の夢であった金銀を衣服に用いることに成功しました。金銀の光輝を用いた衣服を身にまとうことは、現代人の想像を超えた感動と歓喜をともなったことでしょう。金銀箔を衣服に用いるには、大別して二つの方法が考えられます。箔を糸に巻きつけたり、あるいは紙に貼った箔を細く切って織物にする。もうひとつは箔を直接布に接着する方法。
前者の代表が、刺繍・金襴であり、後者が印金(金彩)です。
印金は中国で鎖金・錬金とも呼ばれ、その歴史は唐の時代にまでさかのぼり、金襴と相前後してはじめられたようです。世界の染織品、特に金彩の歴史を辿る時、非常に困難な問題が幾つかあります。まず現存する作品の絶対的な不足、さらに昔の技術を考える場合、現在に於いて過去の作品と同じようなものが出来ても、昔の人が必ずしも、その方法(糊料・技法)で制作したとは言えない部分があるということ、しかも時代や国によって技術や作品の呼び方も異なり、用途も違うため混乱を招きやすい面があります。
金銀箔(金粉その他も含む)を布に接着させるための方法で代表的名称として、中国で創られた物が印金であり、インドやタイ・ジャワの金更紗(ブロックプリント、型紙)は金箔叉は金粉で表わされています。
日本の摺箔、振落とし金砂子も技法や素材は多少違いはあっても、本質的には同じと考えられます。今日の金彩技法の基礎となった技術は、インド・ジャワ・中国を経て宋代に日本に伝わったことを述べておきます。中国の印金は、唐から宋、元の時代を過ぎ、明代にその最盛期を迎えたようです。どんなものであったかと申しますと、羅・紋綾・緞子・繻子地などの布地の上に花唐草や花兎、小花などの文様を金箔であらわし、おもに袈裟などに用いられていたものを、中国へ留学した学問僧がその師承のしるしとして日本にもたらしました。


日本では貴重な裂地として書画の表装に用いられたり、茶の湯の興隆につれて名物裂のひとつとなっています。
名物裂では、中国渡来のものを上代印金として最高位に置き、その他に朝鮮の高麗印金、日本で倣製された典司印金、奈良印金、高野印金などがあると伝えられています。日本に伝来した印金の技術は、我が国に於て長足の進歩をとげ、日本独特の世界を創り出します。すなわち、中国の印金が幾何学的文様の反復文様が多いのに対し、功緻な日本の文様を創作し、豪華絢爛で詩情豊かな絵文様を自由に描き出しこれを金彩技法である慴箔・振落とし金砂子・押箔で表わしています。
ところで、日本に於いて衣服に金が使われ出したのはいつ頃であるのか明らかではありませんが遺品としては正倉院裂に金箔を織り込んだ綴錦があり、平安時代中期以降、男女の装束の袴や唐衣や上着などに箔の文様が付けられた様子が、散見されると言われている面からも、すでにこの頃から十分に日本の金彩技術が育ち開花する素地があったようです。
桃山・江戸時代に小袖・能装束・鐙上着・鐙下着等々に刺繍、絞りと共に慴箔・振落とし金銀砂子・押箔の技術が確立され、その技法を駆使して創作された衣服の名品が今日でも伝えられ大切に保存されています。桃山時代は良く知られているように日本史上の一大転換期でもありますが、金彩の歴史の上でも大変重要な時代です。
日本の歴史の中で、黄金の時代といえるのが安土桃山時代ですが、各地で金山の開発が行われ、金銀の産出量が飛躍的に増えたことによって、今まで極く一部の特権階級のものであった金銀が新興の武将や町人にまで使われるようになり、信長、秀吉を始めその時代の人々が金銀を愛し、彼等が自らの生活空間、調度、衣装を金銀で飾る装飾文化を創り上げ、金銀の輝きを権力のシンボルに最大限に利用し、輝きの美を喜びとしたものです。
衣服の歴史のなかでは、今日の着物の原型とされる小袖様式が確立され、従来は下着的役割であった小袖が表着の性格を持つにつれ、次第に色彩と文様を付加されるようになり、豪華絢爛な染色の美が完成され、小袖能装束などには慴箔や振落とし砂子などの金彩の技術だけで文様が表現されています。日本の能狂言から歌舞伎に至るまで、ほとんどの芸能文化の原型がこの時代に形成され、金銀美を誇るこの時代に最も盛んに使われ、染織文化史のうえで、技術が高度に完成されたことがうかが知れます。


このように、金彩の技法は、日本人の美意識、生活感覚に根ざしたものとして、桃山から江戸初期にかけて確立したわけですから、元禄年間、宮崎友禅斎によって始められた手描友禅よりも歴史的には、はるかに古くからあるわけです。しかし、かくも隆盛を誇った金彩の技法も、いつしか凋落し、明治からつい最近に至までは、手描友禅の数多い工程のなかで最後のお化粧係としての脇役に甘んじていたのです。その原因はいくつかあげられます。徳川年間にたびたび布告された奢侈禁止令による金銀使用の制限、過去の金彩が持っていた技法や素材の欠陥などがあげられますが、最大の原因は人間の力では抗しきれない時代の推移、時代の風潮があります。
人間が存分に個性を主張し、いきいきと生活できる時代、こころのゆとりが物づくりに反映する創造集団の欠如が起因と思われます。桃山時代のように金彩の本来の真価が、今、十分に発揮できる時が再び到来しました。金彩友禅には独自の技法があり、その組み合わせによって、光の綾なすさまざまなバリエーションが生まれ、現代の感性にマッチした文様と色彩との調和を形成しています。